声を落として、一人で飲む ― 美観街の居酒屋 金田と「酒学校」の流儀
自由が丘駅の北東、美観街の居酒屋 金田は、常連から「酒学校」と呼ばれてきた。大きな声を控え、酒を注ぎ合わない。昭和11年(1936年)創業の店が守ってきたのは、静かに飲むという流儀だ。
壁のプレートと「酒学校」
2016年のウェブ記事の取材時、金田の壁には周年に贈られたプレートが据えられていた。記されていたのは「生徒一同」の文字。店主の説明では、店は昔から常連に「金田酒学校」と呼ばれていて、周年にはプレートを贈ってもらっている。その年がちょうど創業80周年だった。
学校、と呼ばれる居酒屋。けれど校則のようなものは、創業者の「嫌い」から始まっている。
船の厨房から、自由が丘へ
同じ取材で店主が語った創業者、つまり店主の祖父の経歴は、まっすぐではない。栃木の農家に生まれ、家を継がずに船乗りになった。外洋を回る船で料理長を務め、陸に上がってから自由が丘で屋台を引くようになったという。そのころの自由が丘を、店主は祖父の話として「原っぱや沼地だらけ」と語っていた。
屋台のあと、最初の店を開いたのは「今の自由が丘デパートのあたり」。そこから2度の移転と拡張を経て、いまの店になった。創業は昭和11年(1936年)。2024年のテレビ番組も、2020年の居酒屋紀行も、この年を記している。
大きな声を控え、注ぎ合わない
創業者は、客が酔って口論したり、酔いつぶれたりするのが大嫌いだった。自分の店では、ただくつろいで酒を楽しんでほしい。だから客に、大きな声で話すのを控えてもらい、酒を注ぎ合うのもやめてもらうよう頼むようになった。席では帽子を脱ぐ、といった作法にも厳しかったそうだ。
それがいつしか常連のあいだで暗黙のルールになり、大人の飲み方を学べる店として「酒学校」の名がついた。2016年の取材時点で、この方針は父から、3代目の兄弟(兄が店主、弟が料理長)へと受け継がれていた。1階は一人か二人で静かに。三名以上なら2階のテーブル席か3階の座敷へ、というのが当時店主の語った案内だ。客に声をかけるのは「結構勇気がいる」とも笑っていた。
商店街公式ガイドの店舗紹介には、店のモットーとして「静かに酒を飲む」と記されている。
京都で修めた技、一番出汁の餡
料理は京懐石の調理技法に基づいている。料理長は京都の懐石料理の名店で修行し、板場を仕切る花板も務めた人だと、2016年の記事は伝える。
兄弟がそろって店に立つまでにも曲折がある。兄は大学を出て会社員になり、30歳で店に入った。弟はレコード会社の内定を断って京都へ板前修行に出た。父の代も3兄弟で店をやっていて、その姿を見て育ったという。
同じ2016年の取材で料理長は、毎日店で胡麻を煎るところからやっていて、40分ほどかけると香りが立つと話していた。
胡麻豆腐は、2026年版のまとめでは名物として挙がり、程よく硬めで胡麻の風味が濃いと紹介されている。
同じ取材で話に出たもうひとつの品が、「里いも満月むし」。里芋のまんじゅうと餡からなる料理で、餡には一番出汁を使っていた。きちんと引いた出汁なら、味付けはひとつまみの塩と砂糖で足り、里芋の甘みが出てくる、と料理長は語った。「とにかく丁寧に作っているだけ」。一品ずつ、懐石を味わってもらうような気持ちで作っている、とも。
コの字のカウンターに座った人たち
カウンターには、吉行淳之介、山口瞳、伊丹十三といった酒を愛した粋人たちも通ったと2016年の記事は書く。2011年春号の取材をもとにした男性誌の記事は、山口瞳と伊丹十三の名を挙げ、店を「清潔で、誠実で、旨くて適価」と評した。
1階には、コの字形のカウンターが2つ。2・3階はテーブル席と座敷だ。2024年2月に掲載された来店記の筆者が見たのは、一人客の多いカウンターだった。話し声はなく、連れ立って来た客も小声で話していた。商店街公式ガイドの店舗紹介では、1階の入って正面にメニューが並び、左奥には画家から寄贈された「酒場の七福神」という油絵がある。
美観街の灯りの下で
金田があるのは、自由が丘駅の北東に広がる美観街。2024年のテレビ番組が、街でいちばんの飲み屋密集地帯として紹介した一角だ。
商店街公式ガイドの掲載情報では、営業は17時から22時(土曜は21時半まで)、日曜・祝日が休み。席数は85席で、約25名が入る宴会場もある。ディナーは3,000円から。
昭和11年の創業から、今年で90年になる。創業者の「嫌い」から始まった作法が、3代受け継がれてきた。美観街の一角、1階のカウンターでは、声を落として胡麻豆腐を一皿。
この記事に出てきた店
- 金田 食べログ
営業時間や定休日は変わることがあります。おでかけ前に各店の情報をご確認ください。