ひかり街の1階、名入りの木のばんじゅう ― 和菓子 大文字
自由が丘駅の正面口を出てすぐ、東急東横線に沿って細長い建物が続く。そのひとつ、ひかり街の1階で、和菓子と餅、お赤飯を手作りしているのが大文字だ。祖父の代から3代。2015年の取材時点で、建物のオープン時からいる数少ない店だった。
ひかり街の1階、建物より先にあった商い
自由が丘駅の正面口からすぐ、東急東横線の線路に沿って、自由が丘デパート、サンリキ会、ひかり街の建物が並ぶ。戦後復興期に、さまざまな商品を集めて商いをした人たちが育ててきた複合ビルだ。2024年9月のテレビ番組では「戦後のバラックがルーツ」と紹介された。2025年の繊研新聞は、ひかり街の始まりを戦後間もない頃の焼け野原にできたヤミ市とし、市場を運営する協同組合がおよそ75年前に正式に建物を作ったと伝えている。
和菓子 大文字は、そのひかり街の1階にある。2015年の取材時点で、建物のオープン時からいる数少ない店のひとつだった。大文字の商いは、この建物より先に始まっている。それ以前は自由が丘の別の場所で商いをしていた、と記事は書く。
「祖父の代から、70年近くこの地で和菓子屋を営んできました」。2024年の区の特集で、3代目はそう語っている。今の建物になってから60年、というのは2015年の取材記事の紹介だ。
木のばんじゅう、3メートルを超える餅つきの道具
2015年の取材記事が目を留めたのは、店頭のショーケースやお菓子のトレー、そして「ばんじゅう」だった。お菓子を入れて運ぶ箱のことで、今はプラスチック製がほとんど。大文字では、名入りの木製のものが使われていた。調湿の関係で木のほうがいい、とも記事は紹介している。
3メートルを超えるような大きな餅つきの道具も、同じ記事に出てくる。便利さより味のために、「やっぱりこれでなくてはいけない」と思うものを、丁寧に使い続けていた。
店が手作りするものを、商店街公式ガイドは短く並べる。和菓子、餅、お赤飯。定番は餡、焼、草の3種類の団子。季節限定品があり、お祝いの御赤飯や一升餅の注文も受けている。紹介文には「地元ファンに長く愛されています」とある。
店頭に並ぶ和菓子は、2019年の取材時点で約30種類。看板は、焼いてからみたらしあんをかける焼だんごで、110円だった。2015年の取材記事の商品リストにも、団子110円とある。小ぶりで食べやすいお団子として、2024年の放送でも取り上げられている。店の奥に厨房がある、と2019年の記事は伝える。
日々の小さな団子と、節目の日のための一升餅。
2代目が覚えている、市場の頃の街
建物がオープンした時のことは、よく覚えている。2019年の取材で、2代目はそう話していた。スーパーがなかった時代で、生鮮食品や佃煮、練り物の店がたくさんあり、今よりもにぎわっていた。映画館などの娯楽もあった。「綺麗な街ではなかったけど」、人が集まる街だった、と。
2024年の区の特集で、3代目は、子どもの頃のひかり街には魚屋や八百屋がひしめき合っていたと振り返っている。時代とともに、その店の数は減っていった。2025年の繊研新聞も、近隣にスーパーなどができて生鮮品の扱いが減ったと書いている。東横線と大井町線が重なる駅として人と店が集まり、自由が丘が雑貨の街、スイーツの街と呼ばれるようになった流れは、2019年の取材で3代目が語ったものだ。
大文字のご主人がトモエ学園の出身だと紹介したのは、2024年9月の放送だった。「窓ぎわのトットちゃん」の舞台となった学園だ。その跡地には今、JIYUGAOKA de aone があり、入り口に記念碑が置かれている。
次の時代に向けて
街が変わるなかで、店をたたむところも増えた。2019年の記事によれば、大文字も一時は閉店を考えた。それでも家業を継いだ。「お客さんのことを考えるとやめられないと思ったんです」。何代にもわたって通う客がいて、誕生餅や赤飯を通して、たくさんのお祝い事に関わってきたから、と3代目は続けている。記事によれば、3代目が家業を継ぐことを決意したのはその12年前。取材の時点で弟も加わり、家族3人で店に立っていた。やることは、親父が続けてきた「当たり前のこと」だとも。
建物の老朽化が進んでいることにも、3代目は2024年の区の特集で触れている。地元の人たちと協力しながら「次の時代に向けて」自分たちもどう変わっていくかを考えている、と。
商店街公式ガイドの掲載情報では、営業は10:00〜19:00、水曜定休。
小銭を握りしめて買い物に来ていた小さなお客さんが、いまでは「自分の子どもと一緒に訪ねてきてくれる」。2015年の取材で、店はそんな話をしていた。木の箱の向こうに、この街の長い時間がある。