「南口1分、三度目の看板 — 鶏のとりこ、卓上5種と麺屋周郷の系譜」
自由が丘駅南口を出て一分、目黒区自由が丘1-31-9。同じ住所で、看板が三度替わった。 塩の淡麗から鶏白湯の濃厚へ。卓上には5種の粉と酢とオイルが並び、 レシピは新橋の一軒から届く。金賞を得た一杯が、街の食堂として四か月を過ごしている。
南口を出て、一分の角
自由が丘駅の南口を出て、一分。目黒区自由が丘1-31-9 に、格子戸と瓦屋根の外観の店がある。 四月の終わりに看板が替わったばかりで、いまは「鶏のとりこ 自由が丘」と読める。
同じ住所で、看板が替わるのはこれで三度目になる。 以前は「塩そば加とう」がここで営まれていて、2021年10月に一度火が出た。 電気系統が原因とされる火災の後、店は長く休んだ。 翌年の2月に「塩そば 一榮」として戻り、四年経った今年、業態を鶏白湯に変えた。 運営会社は変わらない。株式会社CS-C という同じ会社が、この角の食堂を続けている。
街の食堂として、四か月
グランドオープンは 2026年4月28日、火曜日だった。 そこから四か月と少しが経った。八月の下旬になり、店は街の食堂の空気に落ち着いている。 平日は11時から15時まで、そして17時から24時まで。土曜と祝日は昼から真夜中まで通しで開き、 日曜は23時に閉まる。深夜まで灯りがある店は、この一帯では多くない。
看板メニューは二種類。濃厚な鶏白湯の「白のとりこ」と、「赤のとりこ」。 900円のこの一杯は、今年2月にジャパン・フード・セレクションのスペシャリテ部門で金賞を受けている。 同じオペレーターが、同じ住所で、二度の看板替えを経てたどり着いた一杯だ。
塩そば加とうがあり、2021年10月に火災で一度途切れ、翌2022年2月に塩そば一榮として戻り、 そして2026年4月28日、業態そのものを鶏白湯へ移した。淡麗の塩から始まり、火で一度途切れ、 また塩に戻り、四年をかけて今度は濃厚な白湯へ辿り着いた。
株式会社CS-C という運営は変えず、街の食堂という枠も変えず、中身を替えていく。 二度の看板替えのあいだに、街の側もずいぶん入れ替わった。 南口の景色は、店が替わるたびに少しずつ違って見える。
卓上に並ぶ、五つの階段
テーブルの端に、小さな瓶と器が五つ並んでいる。りんご酢、胡椒、漢源花椒、青山椒、ぶどう山椒オイル。 店で「卓上スパイス」と呼ばれるこの五種は、飾りではない。一杯の途中で、味を階段のように変えていくための道具だ。
りんご酢は柔らかな酸で、濃厚な白湯の重さを少しだけ抜く。 漢源花椒と青山椒は、それぞれ違う痺れと柑橘の香りを持つ。 ぶどう山椒オイルは中盤で香りを重ね、胡椒は最後に輪郭を締める。 生姜と酢で立てた「生姜の泡」がスープの上に置かれるのも、同じ設計の一部だ。重さを、香りで相殺する。
金賞の審査講評でも、この卓上調味料による味変の工夫は評価軸のひとつに挙げられていた。 細麺との相性、複雑で奥行きのある旨味、柔らかい鶏チャーシュー、生姜の泡の美しさ。 「鶏の旨味を最もおいしく、無理なく楽しんでいただくにはどうあるべきか」——ブランド側が掲げるこの一文が、 卓上に置かれた五種の並びと重なる。無理をさせない、というのは、食べ手を疲れさせないという意味でもある。
新橋、麺屋周郷という職人
このレシピは、この店で生まれたわけではない。 新橋につけ麺の一軒がある。港区新橋4-19-1、カウンター五席だけの「麺屋 周郷」。 店主は周郷寿克さんという。千葉県の出身で、高校まで剣道に打ち込み、十八歳で調理の道に入った。 辻調理師専門学校の通信講座で一年、学び直したという経歴を持つ。
かつては小岩で「麺屋 寿」という店を営み、2020年4月に閉じた。 コロナ禍でカナダ・バンクーバーへ進出する計画が白紙になり、都内で再起業した。 新橋の店を開けたのは 2021年6月。麺は福岡県産の小麦を使い、菅野製麺所と試作を重ねた特注の中太麺。 スープは豚と鶏と魚介を骨ごと使い、約1.6気圧・136度の圧力寸胴で骨まで溶かしきる。 背脂や腹脂は使わない。濃厚だが、後に残らない。
周郷さんは、つけ麺を「和食のモチーフ」と語る職人だ。締めのスープ割りには日替わりで具が添えられる。 赤玉ねぎ、チャーシューの切り落とし、ゆかりご飯。スープを一滴も残さずに飲み干す設計になっている。 自由が丘の一杯は、この日本食割烹の思想の延長線上にある。金賞を受けたのは新橋の店ではなく、 この考え方が乗り移った先の一杯だった。
次に通りかかる時
夜遅くまで灯りのある一軒として、この店はこの角に落ち着き始めている。 卓上の五種を順に試しながら、一杯の途中で味が変わっていくのを追う。 その先に、新橋の五席のカウンターと、周郷寿克という職人の手つきが遠く見える。
次に南口を通りかかる時、格子戸の内側の湯気を、少しだけ長く見てみようと思う。
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